17話)



 その後、歩の車に乗り込んだ真理は、横に座る歩の存在が、気になって仕方がない。
 自分はGパンにTシャツ姿だ。化粧っ気のない顔に、後ろにひっ詰めた髪形。
 おまけに眼鏡だ。
 いつもの茉莉の姿ではないから、こんなにややこしい事を、考えなければいけない事態になっているのが皮肉なことだった。
 対する歩は、スーツ姿である。高級車に乗り込んだ歩は、意外に長い足を交差させて、落ち着いてみえた。
 自分の車の中なのだから、当然だろう。
 ほとんど毎日顔を合わせていたようで、まともに見ていなかったのを、この時になって、実感したほど。
 スーツ姿の歩の顔付きは、跡目を継ぐ前と、すっかり変わってしまっていた。
 結婚当初は疲れてやつれた感を漂わせていたが、今の彼は何とか峠を越せたらしい。
 辛いビジネスの世界に削られ、鍛えられた上に自信をも、身につけた歩の相貌は、どこか武雄を連想させるような鋭い雰囲気を漂わせている。
 顔形が昔のままなのだから、ひどい違和感を感じた。
「何?・・・どうしたの?」
 言われてハッとなる。無遠慮に、ジッと見つめていたのに気付いて。
「何でもないわ。」
 言って、あわてて前を向きなおる真理の様子に、歩はクスクスと笑ってくる。
「心配しなくても、乾杯は一杯のみで終わらせるから。」
 小さくつぶやいて、いたずらっ子のような表情を浮かべる。
 この顔は、以前の歩だった。
 その顔を見て、とてもホッとしたのはどうしてだろう。
 結婚してからの彼の仕打ちは、とても許せるものじゃなかった。なのに、歩と出かけるのを、心の隅の方で喜んでいる自分いるのだ。
(変な私・・。)
 心の中でつぶやいて、スーパーの袋の中を覗いて魚の切り身が目に入る。ため息をついたのが目に入ったらしい。
「どうしたの?」
 と聞いてくるので。
「中には生の魚が入っているから、悪くならないか心配。」
 と答えると、歩はかすかに目を見開いた。
「そんな事なら、言ってくれれば氷を用意させるのに。」
 言って、すばやく運転手に近所のコンビニに停まるように言った。氷を買って来るように言い付け、あっという間に差し出された氷を目前にして、
「・・・・ありがとう・。」
 と礼をいうのが、ぎこちない。
 こんなに優しい歩は、見たことがなかった。
 いや、結婚する前の歩は、茉莉をからかいながらも、今の彼のような優しげな瞳を向けてくれていた。
 それだけのことなのに、泣きそうになる。
 真理を茉莉だと気付いた上での行動なのか・・・。
 単なるナンパした女に向ける瞳なのか・・・。
 どちらか分からない状態で、混乱した。嫉妬に似た暗い感情が湧きあがってくるのを不思議に感じていた。
 そんな真理と、真相を隠した歩を乗せた車は、滑らかに走ってゆく。


 ほどなくして車が止まり、運転手に先導されて外に降り立った真理は、高くそびえ立つビルの前に立っていたのだった。
 エレベーターに乗り込んで最上階のバーに連れられる。
 時間も早かったのもあって、中は閑散としていた。ひょっとしなくても開店前かも知れなかった。
 慌てて出迎えたバーテンも一人っきり。
「そんなに時間は取らせないから、ビールでも頼もうかな。」
 歩が言って、真理に向かい、
「君もビールでいいかな?いけるよね。」
 なんて聞いてきたのが、白々しく聞こえた。
 少しくらいなら、茉莉が飲めるのを、分かって聞いたようにも感じとれたのだ。
 コクンとうなずく真理の様子を、当然のように確認して、
「じゃあ、頼むよ。」
 と言って、ここは知った場所のごとく、サッサと歩いて行ってしまう。
 後を追って、共に座った場所は、壁一面がガラスで覆われていて、下界が見下ろせる場所だった。
 まさに日が落ちんとする瞬間で、すべてが赤く染まっていた。
 下の車道に、たくさんの車がひしめき合っている。
 こうやってみると、別世界の出来事のようだった。
「どうぞ。」
 ふいに声がかかって、温かいおしぼりを出されているのに気付いてハッとなる。慌てて
「ありがとう。」
 と答えて受け取った様が、歩の笑いの“ツボ”にはまったらしい。
 クスクス笑って、手を拭いてバーテンに渡す。
 すぐにビールとつまみをテーブルに置いて、
「どうぞ、ごゆっくりなさってください。」
 なんて言った後に、チラリと真理を見つめたバーテンの瞳。
 GパンとTシャツに素顔だ。店にそぐわない事くらい、真理にだってわかっていた。
 連れてこられたから、仕方なく一緒に中に入っていったのだ。
 とても気まりの悪い思いをする真理の様子を、ジッと歩は見つめるのみで、何もいわない。
「・・乾杯しようか。」
 と声をかけて、ジョッキを軽く上げる仕草をするので、真理も
「乾杯。」
 と答えてジョッキを上げた。
 瞬間、歩はとても満足気な表情を浮かべた。ビールをゴクゴク飲んで、とても美味しそうに飲むものだから、真理もつい同じようにゴクゴク飲んだ。
 喉ごしにシュワシュワ・・。とほろ苦い液体が通ってゆき、胃の腑がカッと熱くなってくる。
 歩でなくても、始めの一杯は旨い。
「おいしー。」
 思わず言ってしまって、視線を感じた。何気に歩を見ると、彼の表情はこれ以上ないくらいに幸せそうな顔立ちになっていたのだ。
(なぜ、そんな顔をするの?)
 同時に思ってしまう。
 他の女達にも、彼はこの顔を見せるのだ。と・・・。
 その瞬間。
 “真理”を演じきってやろうと思った。
 ただの里中真理になって、歩の側にいて、“河田茉莉”が味わえない彼の様々な表情を見てやろうと思ったのだ。
 悲愴ともいえるくらいに、寂しい決意だった。
 やはり、まだ自分は歩の事を愛しているのだ。
 同時に夫婦でありながら、限りなく遠ざかってしまった二人の関係を、実感してしまうのだった。


 乾杯の後、日が落ちかける瞬間を二人で見た。
『一杯のみ。』と言った通りに、歩はビールを飲み干し、全部は飲めなくてジョッキを見つめる真理の分まで平らげると、
「出ようか。」
 と言って、店を出ていった。
 待たせていた車に乗り込んで、走らせる。
 公園の前までたどり着くと扉を開け、一瞬だったが、二人の間に微妙な沈黙が流れて・・・。
「・・・明日、また逢える?」
 と、耳元でささやきかけられて震えが走った。
「昼からだったらなんとか・・。」
 明日の河田茉莉の予定を思い出しての言葉だった。
 真理の返事に満足したらしい。
「真理の家に迎えに行くから、どこにあるんだい?」
「・・・・。」
 聞かれて、とっさにどう答えていいか分からない質問だった。
 なんとかごまかして、この公園で会う理由を考える真理に、
「心配しなくても、中まで入らないって。教えてよ。」
 と、問いかけてきた。
 この強引にも取れる言い方は、かつての歩そのものだった。
 とても懐かしい思いに捕らわれた真理は、つい住んでいる?(正確には“仮の”が付いたが・・。)マンション名を教えた後、号数まで言わされてしまっていたのだった。
「じゃあ、明日。」
 マンションの前で降ろされた真理に、歩は最後に晴れやかな、とんでもなく柔らかい笑みを漏らし去ってゆくのである。
 ポツンと残された真理は、しばらくマンションのエントランスに佇んでしまったのだった。